SPECIAL

HOME > SPECIAL >映画 「ドキュメンタリー頭脳警察」 瀬々敬久監督インタビュー

Share |
映画 「ドキュメンタリー頭脳警察」 瀬々敬久監督 『MOON CHILD』 『フライング☆ラビッツ』『感染列島』など多くのヒット作を手掛ける大分県豊後高田市出身の映画監督、瀬々敬久(ぜぜ たかひさ)。新作は70年代活躍したバンド「頭脳警察」を06~08年の3年にわたって追い、3部作・計5時間14分にまとめ上げた大作『ドキュメンタリー 頭脳警察』。今回、瀬々監督がシネマ5での公開に合わせて来県。本作をはじめ、監督自身について話を伺った。

頭脳警察とは?

1969年にヴォーカルのPANTAとパーカッションのTOSHIを中心に結成されたロックバンド。
革命運動が激化する時代、その歌詞の過激さから発売・放送禁止が相次ぐが、反体制派のバンドとして多くの若者たちが熱狂した。
伝説的なステージと6枚のアルバムを残し、75年、時代の終焉とともに解散。その後、再結成・ソロ活動を繰り返す。

―なぜ「頭脳警察」のドキュメンタリーを作ろうと思ったのですか?
僕自身が「頭脳警察」のファンだったんです。「頭脳警察」は70年代のバンドで、僕は小学校だから当時を知ってるわけではないんですけど。僕は京都大学に行って自主制作の映画とかやってて、86年に仕事を求めて友人を頼りに上京したんです。その友人から「PANTAの新曲が出たから聴いてみろ」って言われて聴いたのがPANTAさんのアルバム『R・E・D』。いわゆる赤軍の共産主義的なものと近いんですけど、その中で歌ってるのが“アジアの物語”みたいなもので。「日本も不平不満を持ってる若者はいっぱいいるけど、アジアのどこそこにも悲しい人々はいっぱいいるんだ」という歌詞なんですね。社会的なメッセージのある歌だったんですが、それが非常に自分ではおもしろいなと感銘を受けて、それから前の「頭脳警察」の曲を聴くようになったんです。

「頭脳警察」は若いやつの世の中に対する不平不満の代弁者で、ストレートでパンクに近いような楽曲が多かった。助監督やってると当然不平不満はありますよね。「頭脳警察」の曲で「ふざけるんじゃねえよ」っていう曲があるんですけど、そういう歌を口ずさみながら仕事をしていたわけですよ。僕は89年にピンク映画でデビューするんですけど、そのときに『R・E・D』の曲を主題歌のように勝手に使ったんですよ(笑)。まあファンだったわけです。
―映画を作ることになったきっかけは?
今回の企画者はPANTAさんのファンクラブの会報の編集をやってる須田さんなんです。須田さんは普段はフリーのライターさんで、須田さんから頼まれて、その会報の中で「頭脳警察」のファン代表として座談会をしたんですよ。それから2005年に須田さんが河出書房新社から頭脳警察の「証言集」という本を出したんですが、「今度は頭脳警察を映画にしたいんだ。やらないか」と。でいい時期がきたらやりましょうと。

僕が別の作品であるプロデューサーと知り合ったんですけど、そのプロデューサーが「頭脳警察」のファンということを聞いて映画の話をしたら、「是非やりたい」ということになって、2006年から撮影を始めたんですよ。撮影して1年ほど経って須田さんとプロデューサーが大喧嘩して、プロデューサーが降りちゃったんですよ。乗っかかった船なんで僕と須田さんが小さい財布からお金を出し合って、細々と撮影していって(笑)。京都の西部講堂で素晴らしいライブを行って撮影は終わったんですが、それから今の制作会社であるトランスフォーマーさんにお話を持ってって「助けてください」と(笑)。それで助けていただいて完成に至ったという映画です(笑)。思い出深い作品なんです。
―追っていきながらいろいろ見えてきたんですか?
「頭脳警察」は再々結成してますけど、最初、僕がPANTAさんに会ったときは何も動いていない状況で、PANTAさんは違うバンドでやってたんですよ。「頭脳警察」を再結成するということは全く分からずにやってたんで。でも「頭脳警察」の映画にしたかったんですよ(笑)。そのときは再結成は決まってない。だから終わりが見えない。見切り発射というバカな出発をしてるわけですよ。これいつ終わるんだろうなって思いながら撮影してたんですけど。企画者の須田さんはPANTAさんとは月に1回とか会ってるんで、PANTAさん的にはそろそろやりたいなと思ってるのをなんとなく嗅ぎつけてたんでしょうね。それでたぶんいけるだろうというのはあったんだと思います。
―「頭脳警察」の再結成は本作がきっかけでもある?
ある意味そうだと思います。「頭脳警察」のドキュメンタリーを撮ってますからね。PANTAさんは「頭脳警察」のドキュメンタリーを撮ってると思ってるんで、「やっとかんとまずいかな」と思ったのかもしれないですけど(笑)。
―5時間14分におよぶ長編ですが、今回なぜ3部作に至ったのでしょうか?
ちょうど撮影を始めて半年して、PANTAさんのお母さんが亡くなってるんです。PANTAさんのお母さんは元従軍看護婦で第二次世界大戦中に南洋の方で働いていたんです。横浜の山下埠頭に停留している「氷川丸」という船があるんですけど、お母さんは終戦直前くらいに「氷川丸」で帰国してる。元々「氷川丸」は客船だったんですよ。チャップリンはアメリカから日本にくるときに「氷川丸」に乗ってきてるんです。そんな豪華客船だったわけです。それを軍が徴用して船を病院にして傷ついた兵士たちを収容して、介護とかをしてたんです。

彼自身「氷川丸」という曲を歌ってます。いわゆる「頭脳警察」というのは70年代の全共闘運動の頃に反体制側の若者たちの代弁者として一躍注目されるんですけど、そういう人たちにも第二次世界大戦を経験した母の想いみたいなものが伝えられて楽曲を作ったりしてる。それがおもしろいなと思ったんですよ。70年代「革命だ!」って言ってる人たちともう一つ上の世代とのつながりがおもしろくて、描きたいなと思ったんですよ。単に反体制って言ってるわけではなくて、バックボーンには親たちの世代の心根みたいなものが裏打ちされてるのがおもしろいと思った。

パレスチナで日本赤軍として活動しててこっちで捕まった重信房子さんいますよね。PANTAさんはその重信さんと文通をしていて、重信さんの詞に曲をつけて歌を作ったりしているんですね。実際に裁判中も見に行ったり、東京拘置所に会いに行ったりされてて、それもまた面白いと。反体制やってて、今還暦になってる人たちは大体「あの時代はよかった」と思い出に浸る人は多いんですけど、今でもそうやって自分たちがやってたことを確認してるっていうのが非常に興味深かったですね。
一方で「頭脳警察」が解散したときには、自分たちが反体制のリーダーみたいに担ぎ上げられるのにうんざりしたという言い方もされてるんです。そういうことで辞めているんですが、今も重信さんたちと関わりを持ちつつ自分たちのやってることを確認しようとしていることが素晴らしいなと思ったんです。単にバンド映画としてライブや音楽活動を追うだけでなく、もう少し広い社会的なことを入れるには長い映画になるだろうというのがあって、3部作ということにしました。
―ドキュメンタリーの面白さって何でしょうか?
今回の話にしても、社会の話をモチーフにしたいと思って撮影してましたけど、最終的には人柄におちてしまう。人間に触れられるというのがドキュメンタリーの面白さだと思います。今回は、その人の素晴らしさっていうのが一番伝わってきたというのが大きいです。人間ドキュメンタリーとして観れる作品なんで、「頭脳警察」を全然知らない人も観て欲しいし、ステージもいっぱい撮ってますけど、どれも素晴らしいので、是非観てください。
―監督自身についてお聞かせください。映画監督を目指したのは?
僕は高田高校を卒業して京都に行ったんですけど、僕の高校時代は、大森一樹さんや石井聰亙さんたちが学生で自主制作映画を作って評判になって助監督経験なしにいきなり商用映画の監督になった時期だったんですよ。それまでは撮影所の助監督を何年か経験して、叩き上げていって監督になるという仕組みだったんですけど、70年代後半は素人がいきなり映画監督になるという時代が到来してきたんですよ。自主制作映画で有名になれば、プロデューサーから引き上げられるみたいな。なんにも知らない素人がいきなり監督になれるのがすごいなと思ったんです。で「これからは映画だ!俺も映画をやるんじゃ」と思ったわけですね。



たまたま高校の物理教室に8ミリカメラが置いてあって、撮ったのが始まりですね。で大学の頃、自主制作映画を作ってたんです。イメージフォーラムていう映画館があるんですけど、そこは実験映画とか、ちょっと難解な個人映画を上映してたんですね。そこで関西のほかのやつらと上映をしたんですが、僕の作品は、かわなかのぶひろさんという実験映画の大家のような方から「この映画は同情にすら値しない」という酷評を受けてですね(笑)。実験・個人映画で芽はないなと。ちょうどその頃、「ぴあフィルムフェスティバル」で、グランプリ獲ったら1000万円の資金で映画を撮らせてくれるという制度が始まった時期だったんですよ。で劇映画を目指そうと思って。映画を作って応募したんですけど見事に落ちまして。これもダメかと。

80年代の半ばは、自主制作映画で名を馳せた人か、ピンク映画でそこそこ頑張った人がメジャー映画に吸い寄せられるような仕組みがあったんです。たとえば「おくりびと」の滝田洋二郎監督も昔ピンク映画を撮ってたんですよ。「じゃ、残るはピンク映画だ」と(笑)。で上京して滝田洋二郎さんも所属してた獅子プロダクションに潜り込んでピンク映画の助監督を始めたんですよ。先輩が言うには「3年頑張れば監督やれるから」と。まー悲惨なんですけど、3年だったらなんとか我慢できるかなと。

最初にピンク映画の作品で助監督に付いたのは滝田洋二郎さんの作品でした。普通映画って美術や衣装さんがいるんですけど、ピンク映画は助監督2人がスケジュール、衣装、小道具、全部やるんです。監督と助監督2人、照明部2人、撮影部2人の計7人で作ったりしてたんですよ。でうまく3年でピンク映画ですけど監督になったんですね。そんな感じで始りました。
―その頃の経験が今に生きてますか?
そうですね。だからプロデューサーが途中でやめるっていってもなんとか頑張れるっていう(笑)。映画は簡単な仕組みできているんだと。そんなに難しく考えなくてもカメラと被写体があれば成立するんだということは思ってます。
―豊後高田市のご出身ですが、
  生まれ育った環境が作品に影響を与えることは?
僕が育ったのは当時は西国東郡真玉町てとこだったんです。今は市町村合併されてますけど、郡部だったんで何もないとこでした。当然、影響はされていると思いますよ。具体的に何かって言われるとなかなか言えないんですけど、影響はあると思います。今日も空港からバスで大分市内に来たんですけど、10号線の別府湾辺りを通ると、なんだか切ない感じになりましたね(笑)。京都にいた頃、田舎に帰るときは大阪からフェリーで帰ってきてたんで、その頃を思い出したりして。
―多くの作品を手掛けていらっしゃいますが、
  作品を撮り続ける秘訣って何ですか?
よく言うんですけど、WORKとJOBってあるじゃないですか。JOBって与えられたことをやらなければいけない仕事なんだけど、WORKって活動って言ったらおかしいんですけど、人生生きていくには何か活動しなければいけないですよね。僕は映画を作ることが生きることっていったらダサいですけど(笑)・・・それとイコールみたいなところがあるわけじゃないですか。映画を作ることをやめたら死んでるみたいなもんという感覚がどっかにあるんで。映画を作ることでいろんなことを見つけたりもするし、社会のことを発見したりもするし、人との触れ合いも当然そこから生まれてくるわけで。僕にとって映画は生きることとイコールなんです。それで作品を撮り続けているというのはあります。
映画 「ドキュメンタリー頭脳警察」
40年間、変わらない。闘い続けるバンド頭脳警察とPANTAのすべて。
ロック映画史の伝説を塗り替える、革命の5時間14分。
公式サイト 
http://brain-police-movie.com/

シネマ5にて絶賛公開中!
※2月19日(金)まで
詳細はこちら
http://www.cinema5.gr.jp/